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ンの骨組は悪運、罪悪と死のシンボルとして黒いカラスが飛び交い、感染した幼児を抱えている死んだ男、そしてミサで使った香炉を持っている黒い衣を着たカトリックの祭司たちです。これらの巻軸装飾はカトリック教会がコンドームを責めるべきだと提案しているのでしょうか。どんなに私たちの道徳傾向や判断を一時休止しても、生命の質はアーネスト・ベッカー(Ernest Becker)が「実存的パラドックス」(1973)と呼ぶものに私たちを直面させます。私たちの人生が何であれ、私たちは有限性と超越性の間のバウンドリーの平衡を保っています。私たちは虫の食物か、あるいは蝶がさなぎを離れて変形するかのどちらかです。
草葉と木々の下に
ソロモンビーンズの体が葬られている
ビーンズ(豆)はここにはない。さやだけがある
ビーンズ(豆)はさやから出て神のもとに行った

 

人の魂が生き続けるパラダイス、天国、永遠の喜びの描写は、東洋と西洋の文化の芸術に多く見られます。非常に違う文化的概念から出てきても地獄的な刑罰のイメージは驚くばかり似ています。11〜12世紀の日本の地獄絵巻物の中で、地獄に落とされた者が燃える穴で悪魔に苦しめられる場所が標準であるようです。アメリカの若者は「よい人だけが天国に行き、他の人々はいつも暑いフロリダに行きます」に素早く反応しました。「バード・ソドル」を土台としてこのチベットの死後のイメージは天国の領域への再生の可能性を暗示していますが、究極の霊的求道者はそれより低い、文字通りの超越性を求めています。平和の神々に囲まれ、妻に抱擁されている知識保持神チムチョク・ヘルカ(Chemchok Heruka)は、反対者の統合と賞賛によって特徴づけられた秩序と調和のシンボルです。
私たちは暗闇の世界と光の世界の境界にいます。希望はその二つを統合し、霊的な意味で反対者を一つにすることです。このイメージは私が全人的癒し、つまり死につつある時間のしわざとして語っている美しい例証です。
死の場所とは単にひとつの宗教的・文化的神々との再会とは見られていません。それは、より個人的な再会として見られています。それを著者たちはこう単純に説明しました。「私の祖父は死にました。そして祖母も死にました。なぜなら彼女は祖父と一緒にいたかったのです。彼らは50年間も結婚していたので、一緒にトランプでもして遊びたかったからです」と。
彼は最初に死んだ
彼女はしばらくの間、
彼なしに生きることを試みた
しかしそれがいやで死んでしまった

 

死を超越する別の方法もあります。その人の存在が家族、文化、社会、仕事、行為の中であとにする世界に深く記憶にとどめられることは、神学的、あるいは個人的な復活よりもっと象徴的です。生物的不減の例は、その人の家族や部族や一門の中に生き続けることです。アフリカ系アメリカ人画家ジェイコブ・ローレンス(Jacob Lawrence)の「ジェネレーション」(1976)は、多くの世代の家族の一族です。とくに私たちの目的のために特筆すべきことは、グループ写真に含まれている反奴隷シーンです。黒人文化は祖先や歴史的遺産を敬います。広島や長崎で死んだ人々を敬うための記念は単なる悲惨な過去を象徴的に思い出させるものではなく、人間的なレベルでは第2次世界大戦はすべての人々にとって敗北であったといえることです。これらの思い出はミケランジェロの彫刻“ピエタ”やあるいは黒沢明監督の映画は、

 

 

 

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